インフラとしての電気が不安になっている

水を確保するための「井戸」がまだ残っている場所もあるでしょう。ガスではなく、薪をくべて火を起こしている土地も、もしかするとまだあるかもしれません。ですが、電気はそういうわけにはいきません。

代替手段がない、それが電気の弱点です。それがなくなった時に、替わりの供給源を得ることができないのが電気です。それは「自然に存在するものではない」ということがもっとも大きな原因です。水は自然に存在します。雨は降ります。川もあります。私たちは水道網が完全に死んでしまっても、古来の方法で水を得ることができるでしょう。ガスも同じです。ガスの供給がなくても、私たち人間は火を利用して生きて来ました。ですが、電気は違います。電気は水や火、風のチカラ、そして制御できない原子力を「変換」して作られたものなのです。電気は「作る」ことが必要なエネルギーです。誰かが作っているから、それを用いることができるもの、それが「電気」なのです。

インフラとして電気が脆いのは、供給するための電線に不安があるからではないのです。電線が切れたとしても、また繋げばいいだけのはなしです。電柱が倒れてしまえば、また立てればいいだけのはなしです。ですが、それが不安なのではないのです。電気を作っている「発電所」に不安があるのです。自然災害の前に脆くも崩れ去った原子力発電所、そして火力発電に切り替えようにも限られた原油しかないのです。「新時代」のパワーであった原子力は、実はまだ私たちが制御できるようなものではないということです。一度暴走をはじめると、手に負えなくなってしまうものなのです。近隣の住民が何年も避難しなければいけなくなってしまうもの、それが原子力なのです。

電気はクリーンなエネルギーといいます。ですが、それは実際に使用した際、その電気を使用した際に温室効果ガスが発生しないだけなのです。すべての発電を火力に置き換えてしまうと、発電する際にやはり温室効果ガスは発生します。どこかで地球を汚すことになる。それが私たちのエネルギーの実際なのです。誰かが汚す必要があるのです。そして、利用するためには常に「作り続ける必要がある」のです。たとえ誰も使っていなくても、社会基盤として成立してしまった電力は、ずっと作り続けなければいけないのです。それは「不毛」なことかもしれません。ですが、私たちの社会はそんな不毛さに支えられて成り立っているのです。

電気を使うことがいけないというわけではないのです。大切なのは私たちが日頃使っている電気が、どのような性質のものなのかを知るということ、自覚することなのです。電気がそこにあるのが当たり前なのではなく、電気を維持するためにどれだけの労力が割かれているのかを知ることが大切ということです。私たちは今の暮らしを捨てることはできません。仕事もできなければ、職場に通うこともできなくなってしまうのです。だから電気を大切にしたいのです。電気を大切にするということは、単純に節約するということではなく、社会としての電気の在り方、供給の継続方法を考えるということです。誰もが当事者意識を持って、それを考えることが大切なのです。

 
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