手回し充電の仕組みとは

物理的な「運動」を、電気に「変換」することはずっと以前から可能です。大規模な発電所も、結局のところその原理を大型化したものなのです。何かのチカラでタービンを回転させ、発電しているのです。

これを小規模で再現すると、「手回し運動」でも発電することは可能です。自転車のライトがタイヤの回転と連動して光るように、自身の手で小型のタービンのようなものを回転させて発電するのです。どれだけの回転運動があれば、自分の生活を支えるだけの電気が得られるのかはわかりませんが、残念ながらそのような発電だけでは生活を支えるほどの電気は得られません。自転車のライトが、タイヤの回転が止まれば輝きを失ってしまうように、「運動しつづけなければ電気は発生しない」のです。ですから、自分のチカラだけで発電し続けることになります、パソコンを使うのも、テレビを見るのも、冷蔵庫でなにかを冷やすのも、それらの間ずっと自分で発電し続けなければいけないのです。

これは物理的に不可能なことです。自分の手でハンドルなどを経由して多少の電気を生み出すことは出来ても、そこで得られる電力は私たちにとっては「一瞬」でなくなってしまうものです。運動についやすチカラ、そして時間と、それで生じた電力を使用する時間の帳尻が、間違いなく合わなくなるのです。この時点で、「自家発電」のひとつの方法が消えました。自分で運動して、自分の暮らしを支えるなどということは出来ないのです。そして、それを「絶やさない」ということなどは私たちには不可能で、「生活」することができなくなってしまうのです。

発電に必要な運動量がどれくらいであるにしても、私たちは身体を動かして発電だけして暮らすなどということはできないので、何かの代替手段が必要です。それと同時に発電所でどれほどの運動エネルギーが生じているのかがわかるというものでしょう。私たちがよってたかって運動したところで、到底敵わないほどのエネルギーが日々生み出されているのです。それを実現するエネルギーの「素」の巨大さも想像できるというものです。

ただ、たとえ微量ではあっても手回し運動などで電力が得られるのは間違いありません。それによってほんの少しでも電力が自前でまかなえるのであれば、それは決して悪いことではありません。自転車のライトを自身の運動によって得られるチカラを変換して灯すことができるのです。あのような光が集まれば、ひとつの大きな光を生み出すこともできるのです。そのようなことをイメージしてみると、「ムダなこと」は何もないという考えに至ります。到底自分だけでは、自分ひとりが生きていくための電気を作ることなどできないのですが、それでも少しは発電できます。その「少し」が積み重なることが重要で、水のようにそのままの姿を蓄積しておくことができない「電気」の貴重さもわかるというものです。

私たちが集まれば、もしかすると「電力不足」が少し解消されるかもしれません。発電所で消費される燃料が、少し少なくなるかもしれません。「電気は与えられるもの」という考えから、まずは脱却したいものです。電気は、無限ではないということ、それを念頭に置きたいものです。

 
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