人力発電の限界とは

物質からエネルギーを取り出し、それを何かに変換するということが現代の文明のすべてを支えています。一滴の原油を燃焼させることで、燃料を「運動」に変換して、自動車は走っているのです。

生きて動いている私たちを発電リソース、つまり「エネルギー」として捉えてみたとしましょう。それで「どこまでできるのか」という限界を考えてみたいと思います。考え方は
シンプルです。例えば「自転車」で発電するとします。自転車を漕ぐ際にもっともチカラを入れるべき局面は「走りだすとき」です。走りだすときに、私たちは一番足にチカラを入れています。一旦走りだしてしまえば、後は「慣性」と相まってそんなに沢山のチカラは必要としないのです。

その「自転車」に、何人までなら載せて走ることができるでしょうか。別に台車を取り付けて、そこに人を載せても構いません。一人や二人なら、どうにか走りだすことができそうです。ですが、電車のように何百人も載せればどうでしょうか。到底動かないのではないでしょうか。実は、それで私たちの「チカラ」による発電の限界を知ることができます。

すべての運動エネルギーが、欠損することなく違うエネルギーに変換できたとしたら、そのエネルギーでできることはそれを生み出す際に発生した「運動」のチカラを超えることはできません。つまり、自転車一台で、私たちひとりでつくりだした電力では、電車を一両も動かすことができないのです。逆に言えば、電車はそれほどの電力を使用しているということです。私たち人間が創りだすことができないほどのエネルギーを、運行の度に消費しているのです。その素になっているのは「発電所」での何かを媒介にしたタービンの回転です。その媒介は原子力であるかもしれませんし、原油を燃焼させた「火力」かもしれません。またはダムを利用した水力かもしれません。なんであれ、私たちの身体から発することができるエネルギーの何倍ものエネルギーを発しているのです。

そのようなエネルギーを生み出すことができる技術力もさることながら、私たちが何気なく使っている電車が、そのようなエネルギーによって支えられていることに改めて恐ろしさを抱かないでしょうか。私たちはとんでもないエネルギーを日々使用しているのです。そのために、その瞬間に、もしかしたら地球の資源が失われているのかもしれません。

エネルギーを効率的に取り出せる資源として、石炭をはじめ原油といった化石燃料を重宝しています。それらは間違いなく私たちの暮らしを豊かにしたものです。ですが、それによって発生する副産物は地球環境を汚染してしまうほど、自然が浄化するチカラが及ばないほど、大きなものになってしまいました。自分一人では電車を動かすことさえ出来ない私たちは、それらを利用することを思いつくことは出来たのですが、その結果起こることまでは想像することが出来なかったのでしょう。

実際に汚染されてみて、初めて気づいたのです。ですが、その時にはすでに取り返しがつかない自体になりつつあったのです。私たちの利用しているエネルギーは、暮らしを豊かにすると共に環境を破壊するエネルギーだということを自覚しなければいけません。

 
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