私たちの生活は日に日にその利便性を向上してきました。私たちの両親や祖父母に話を聞いてみると、今のように便利な暮らしは以前では想像もできなかったといいます。

私たちの生活は「エネルギー」を消費することで成り立っています。電灯に明かりを灯すのも、車が走るのも、パソコンが動いたりテレビがついたりするのも、お湯を沸かすのも、全てエネルギーのなす技です。エネルギーを効率よく、期待する形に変換すること、それが私たちの誇る「技術」です。ですが、さすがの人類も「無」からエネルギーを取り出すということまでは出来ないものです。エネルギーが発生するためには、必ず何かが「消費」されるのです。その「何か」が昨今では問題になっています。私たちの暮らしが便利になるということは、より多くのエネルギーが必要になるということです。ですが、エネルギーを得るための「素」は限られているのです。

私たちの技術開発は留まることを知りません。無限の探究心は人類を月に送り届け、還ってくるということも実現できています。普段の生活もずっと今のままではないのです。さらに便利に、さらに効率的に、開発が進むことでしょう。

ですが、私たちが今消費している「エネルギー」は有限です。私たちは「燃料」を消費することでほとんどのエネルギーを得ているのです。私たちに与えられた燃料は、地球が膨大な時間をかけて生成した、過去からの贈り物です。それらは無尽蔵に存在しているわけではなく、いつか枯れ果ててしまうでしょう。化石燃料と呼ばれるそれらに頼った私たちのエネルギー精製法は、やがて限界がくるのです。

もちろん、「電気」というエネルギーに着目すれば、その発生方法は「火力」だけではありません。世界にはすでにさまざまな発電方法があります。ですがそれらは「火力発電」ほどに頼れるものではなく、また昨今問題視されている「原子力発電」のような危険なものもあります。いつかなくなってしまうことが確実視されている「原油」、その代替となる完璧なエネルギーを、私たちは手に入れることができていないのです。

自家発電とは、「自分で電力を作る」ということです。「電気が発生する仕組み」自体はさまざまな角度からすでに技術的にも完成していて、個人レベルであっても、ちょっとしたライトを光らせるくらいならば可能になっています。「自転車のライト」を思い出してください。タイヤと接触し、タイヤの回転と共に光るあのライトは、かなり以前から使用されているものです。運動エネルギーを電気に変換し、ライトを光らせることは、私たちはとっくに実現しているのです。

私たちの身近なところで、さまざまな局面で「電気」が必要で、それを完全なカタチで「蓄積」するようなことも難しいため、私たちはどうしても電気を常に供給してもらう必要があります。ですが、「明かりを灯す」こと自体が、もしかしたら原油の消費を促進させていることなのかもしれません。普段何気なく使っている電化製品のひとつひとつが、地球の資源を食いつぶす原因になっているとしたら、自分たちで自分たちの未来を暗くしているようなものではないでしょうか。そのようなことをすこしずつ、考えていってほしいのです。